青い花の海に名を預けた日――新成人を迎えたアイドルSAYAが、視線の奥に秘めてきた沈黙と選択、そして「誰のものでもない自分」へ歩み出すまでの、静かで確かな覚醒の記録

青い花が一面に咲く丘で、SAYAはひとり膝を折っていた。
花の名を正確に言える人は多くない。ただ、風に揺れるたび、空と地面の境界が溶けていくように見えるその光景は、彼女の記憶の奥にいつも同じ感情を呼び起こした。静けさ。そして、決意に似た何か。
新成人となったその日、彼女は仕事の合間にこの丘を訪れた。スケジュールには「撮影予備時間」とだけ書かれている。だが、SAYAにとってそれは、誰にも管理されない時間、誰の期待も背負わない瞬間だった。
アイドルとしての彼女は、常に誰かの言葉の中に生きてきた。
「清楚」「透明感」「理想的」。
それらは褒め言葉であり、同時に檻でもあった。赤い口紅を初めて選んだ日のことを思い出す。スタイリストが一瞬だけ黙り込み、それから「大人っぽいね」と言った。その声色の変化を、彼女は忘れていない。
丘の上で、SAYAは自分の指先を見つめた。細く、震えもなく、確かにそこにある手。これまで何度もポーズを作り、何度も誰かの視線を受け止めてきた手だ。でも今は、ただ自分のために、そこにあった。
風が吹き、前髪が揺れる。
カメラはない。指示もない。
それでも、彼女は自然と顔を上げ、遠くを見る癖をやめられなかった。見られることに慣れすぎてしまったのだと、少しだけ苦く笑う。
けれど、その視線の奥には、昔から変わらない問いがあった。
「私は、誰の人生を生きているのだろう」
デビューした十五歳の頃、彼女は“選ばれた”。そう言われた。だが選ばれた瞬間から、選ぶことは減っていった。何を着るか、何を語るか、何を好きだと言っていいか。その一つひとつが、慎重に整えられていた。
青い花の間に座り込み、SAYAはそっと息を吸った。
花の香りは淡く、記憶に残らないほど控えめだ。それがいい、と彼女は思った。強く主張しなくても、ここに在る。そういう在り方もあるのだと、花たちは教えてくれる。
新成人とは、突然自由になる魔法ではない。
ただ、自分の選択に名前を書く権利を得るだけだ。
SAYAは立ち上がり、丘を見渡した。
これからも、彼女はアイドルであり続けるだろう。歌い、笑い、期待に応える日々は続く。だが同時に、彼女は自分の沈黙も、自分の迷いも、切り捨てずに抱えていくと決めた。
赤い唇は、誰かを誘惑するためではない。
言葉を発するための境界線だ。
緑がかった瞳は、幻想を映すためではない。現実を選び取るために、そこにある。
| 鬼岩正和(作家、実用書著者、AIアートクリエイター、エッセイスト、そしてパノラマ写真家、WEBシステムエンジニア) |
丘を下りる前、SAYAは一輪の花に指先で触れた。
名前を呼ばなくても、花はそこに咲いている。
「私も、そうでいい」
そう小さく呟き、彼女は歩き出した。
青い花の海に背を向けて。
だが、その静かな覚醒は、確かに彼女の中で咲き始めていた。





























